上間京子のライフストーリー
Life story
病弱で、ひょろひょろ痩せっぽちの子ども時代
1951年、私は月満ちて3kg近い体重で誕生。でも、母乳の飲みが悪く、体重が増えなかったため、両親は医師たちにすがりました。しかし、「心臓に穴があいている」「栄養失調ですね。乳児用のビタミン剤を飲ませて」というだけで、解決には至りませんでした。今思えば、乳児にビタミン剤なんておかしな話ですが、戦後6年という物も情報もない時代。私は痩せっぽちのまま育ちました。
虚弱なうえ、胃が弱いために食欲もなく、常に調子が悪い状態。乗り物酔いもひどく、たまの家族旅行もままなりませんでした。紅葉狩りに行こうとバスに乗っても5分も経たずに最悪の状態になり、私の家族だけ降りたことも。こんな子どもが明るく快活なはずはなく、私はどんどん内向的で暗い性格になっていきました。
“からかい”という“いじめ”
昔のいじめは今ほど陰湿ではないかもしれませんが、私を見つけると「痩~せ、痩~せ」とはやし立てる悪がきどもがいました。しつこい“からかい”は立派な“いじめ”です。この“からかい”は小学校に上がると、もっとひどくなりました。集団健診で再診に回されるような子どもだったので、私は格好のターゲット。「放っておいてほしい。好きで痩せているんじゃない」と、今でも無性に腹立たしい気持ちがフラッシュバックしてきます。
なかでも忘れられないのが、小学校2年生のとき。いまだに顔も名前も覚えている30代前半ぐらいと思われる男性教師で、廊下や運動場で私を見るたびに「よう痩せとるの~」と声をかけるのです。私は先生のその挨拶が嫌でたまらず、先生の姿を遠くに見つけただけで逃げるようになりました。そして、ついに我慢の限界がきたある日、両親にそのことを訴えたのです。すると余程のことと母は感じたのでしょう。何があっても「先生にお任せします」という時代だったのにもかかわらず、母がすぐに学校を訪ね、先生にお願いしてくれました。それ以来、先生は何も私に言わなくなりました。
それから20年以上経った頃、母が「あの先生は京子のことが可愛くて仕方なかったから、つい声をかける、と言われていた」とポツリ。